
ベストプレープロ野球で振り返る思い出の名選手たち

球史に残る名選手から、話題になったおもしろい選手。90年代活躍した選手を中心に紹介します。
あなたのべスプレにデータを入力してプレーしてみてはいかがでしょうか?
あのころを思い出しながらプレーするのも「ベスプレ」の醍醐味ひとつです。


■イチロー(外野手)オリックス・00年退団
2000年オフにポスティングシステムを使ってメジャーに移籍した。
94年から7年連続首位打者。山田久志以来の3年連続MVPなど輝かしい実績を誇る。
初ホームランは93年に近鉄・野茂から放っている。ベスプレで幻の名勝負を再現。
2000年 決定版に収録(日本球界ラストイヤー)
1993年 決定版に収録(鈴木一郎時代)
1994年 決定版に収録(イチローとしてブレイク)

■駒田 徳広(一塁手)巨人〜横浜・00年引退
2000本安打を達成したこの年限りで引退した。巨人を飛び出していって活躍した数少ない選手。
横浜時代はよくスタンドのファンの野次に大声で怒鳴り返していた。熱い選手ではあった。
一番の思い出は1989年の日本シリーズ第7戦、近鉄・加藤哲郎からホームランを放ち、一塁ベースを回る際に加藤に
対して一言放っていたのが印象的。口の動きからは「バーカ」と言っているように見えたが…。
2000年 決定版に収録(横浜時代・ラストイヤー)
1992年 決定版に収録(巨人時代)

■野田 浩司(投手)阪神〜オリックス・00年引退
オリックス移籍1年目の1993年に17勝を挙げ、最多勝に輝く。また4試合連続2ケタ奪三振も記録した。
トレード相手の松永は阪神では期待外れに終わり、阪神ファンは野田が大活躍するたびにため息をついた…
1994年8月12日の対近鉄戦にて、プロ野球タイ記録となる1試合17奪三振をマーク。
さらに1995年4月21日の対ロッテ戦にて、自身の持つ日本新記録を上回る1試合19奪三振の日本新記録を更新する。
しかし、その後はフォークを武器にする投手には宿命とも言える右肘の故障で2000年に現役引退。
1993年 決定版に収録(オリックス時代・最多勝獲得)
1992年 決定版に収録(阪神時代)
■佐々木 誠(外野手)ダイエー〜西武〜阪神・00年引退
90年代パ・リーグを代表する俊足・強打の外野手。ダイエー時代の1992年には首位打者と盗塁王を獲得した。
1993年オフ、世紀の大トレードと呼ばれた大型トレードで村田勝喜、橋本武広両選手とともに西武に移籍した。
西武初期には主に3番として清原和博とSK砲を組み、優勝に貢献した後期には6番として活躍。
1999年 決定版に収録(阪神時代)
1994年 決定版に収録(西武時代・盗塁王獲得)
1992年 決定版に収録(ダイエー時代・首位打者獲得)

■斎藤 雅樹(投手)巨人・01年引退
惜しくも200勝は達成できなかったが、間違いなく90年代最強の投手。桑田、槙原と巨人3本柱として活躍。
最多勝3回、最優秀防御率3回獲得、開幕戦3年連続完封など輝かしい記録を残した。
1989年には11試合連続完投勝利という前人未到の記録を達成した。
ドラフトでは抽選を外したあとのハズレ1位だったが、巨人は斎藤を指名して大正解だった。
2001年 決定版に収録(ラストイヤー)
1989年 決定版に収録(最多勝獲得。11試合連続完投勝利)

■槙原 寛己(投手)巨人・01年引退
1994年に史上15人目の完全試合を達成。斎藤雅、桑田と3本柱として長年巨人投手陣を支えた。
1999年に阪神・新庄に敬遠球をサヨナラ打されるという珍プレーは今も語り草に…。抑えに転向してからはリリーフ
失敗が多く、「ハラハラ魔神」と呼ばれたこともあった。それでも「ミスターパーフェクト」こちらの方が似合う。
1999年 決定版に収録(リリーフエースとして活躍)
1994年 決定版に収録(史上15人目の完全試合達成)
■今中 慎二(投手)中日・01年引退
90年代セ・リーグ最高のサウスポー。93年は最多勝、奪三振王、沢村賞とタイトルを総ナメした。
96年まで4年連続二桁勝利、4年連続開幕投手と中日のエースとして君臨。通算25勝の巨人キラー。
MAX146キロのストレートと90キロ代のスローカーブを武器に打者を翻弄。その投球術は天才的だった。
チーム内の信頼度が抜群で、94年巨人との「10.8」決戦には先発。4回5失点で負け投手に。惜しくも優勝を逃す。
1994年 決定版に収録(伝説の「10.8」先発登板)
1993年 決定版に収録(最多勝・沢村賞獲得)
■西村 龍次(投手)ヤクルト〜近鉄〜ダイエー・01年引退
90年ドラフト1位。入団以来4年連続で二桁勝利をマークし、1992年、1993年のリーグ2連覇に貢献した。
1994年5月11日の対巨人戦で、グラッデンへの内角球がきっかけで両軍入り混じっての大乱闘が起こった。
それ以降、伝家の宝刀シュートはなりを潜め結局この年6勝に終わり、入団以来続いた二桁勝利が途切れた。
西村が開幕戦に投げれば優勝する、というジンクスがあり、セパ両リーグで合計5度の開幕投手を経験した。
ヤクルトでは1992年リーグ優勝、1993年日本一。ダイエー時代は1999年日本一、2000年リーグ優勝。
特に2000年に至っては登板機会が開幕戦だけであり、ジンクスによる登板であることが公然と言われていた。
2001年、5度目の開幕投手を務めたがチームは2位に終わり、そのオフ引退した。
2001年 開幕版に収録(ダイエー時代・ラストイヤー)
1992年 決定版に収録(ヤクルト優勝時)


■松井 秀喜(外野手)巨人・02年退団
2002年オフにゴジラもFAでメジャーへ。この年、首位打者は終盤に福留に抜かれ3冠王は逃したが50本塁打を達成。
90年代セ・リーグのスター選手の1人。野球少年たちのあこがれの存在になった。清原が加入してからの「M・K砲」
さらに高橋由が加入後は「M・K・T砲」としてセ・リーグの投手陣を怖がらせた。
元々は阪神ファンだったらしいので、巨人ではなく阪神に入団していたらプロ野球の勢力図も変化していただろう。
2002年 決定版に収録(日本球界ラストイヤー)
1993年 決定版に収録(ルーキーイヤー)
1996年 決定版に収録(巨人優勝・入団4年目で38本塁打放つ)

■秋山 幸二(外野手)西武〜ダイエー・02年引退
清原と共に西武黄金時代を支えた大打者。1993年オフに佐々木、村田らとの大型トレードでダイエー移籍。
同リーグの主力選手同士(というか看板選手同士)の電撃トレードには驚かされた。
成績面は西武での活躍のほうが目立っているが、ダイエーを戦う集団に変えた功績を考えると
ダイエー時代の方が輝いていた気がする。それでも西武時代のホームランあとのバック宙は今でも印象的。
身体能力が高く、もともと日本人でもっともメジャーリーガーに近い選手と言われていた。
2002年 決定版に収録(ダイエー時代・ラストイヤー)
1992年 決定版に収録(西武時代)

■池山 隆寛(遊撃手・三塁手)ヤクルト・02年引退
ブンブン丸の愛称で88年〜92年まで5年連続30本塁打。フルスイングでファンを魅了した。
引退試合では神様のいたずらで延長戦に突入し、もう一打席回ってくるという奇跡がおきた。
最後までフルスイング。豪快な三振で現役生活最後の打席を終えた。「涙でボールが見えなかった」ファンも共に涙した。
2002年 決定版に収録(ラストイヤー)
1992年 決定版に収録(ヤクルト優勝時)
■星野 伸之(投手)オリックス〜阪神・02年引退
タイトル獲得は少ないが、11年連続二桁勝利を記録するなど、90年代にパ・リーグを代表する投手として活躍した。
非常に細身な体型で、最速130キロの速球に90キロ台のスローカーブとフォークで勝負する異色の投手だった。
1990年9月20日の対日本ハム戦で星野のすっぽ抜けたカーブを捕手の中嶋が右手で直接キャッチし、
星野の球速を超える球速(推定140キロ以上)で返球したことで客席やベンチから失笑が起こった…
ベンチに帰り星野は「素手で取るなよ。ミットが動いてなかったぞ」と機嫌を悪くしていたが、
中嶋は「いや、ミットが届かなかったんです…」とごまかし、星野の怒りは収まったらしい…
2002年 開幕版に収録(阪神時代・ラストイヤー)
1996年 決定版に収録(オリックス優勝時)
■石井 浩郎(一塁手)近鉄〜巨人〜ロッテ〜横浜・02年引退
近鉄時代は不動の4番バッターとしていてまえ打線を引っ張った。1994年には打点王を獲得した。
1996年オフに契約のもつれから巨人にトレードされる。まじめな性格から日本テレビ「THE・サンデー」のスポーツコーナー
で「拝啓、石井浩郎です。」というコーナーが設けられ、視聴者から好評を得ていた。そのため巨人を退団した後も
このコーナーはしばらく続けられた。「あ〜な〜た〜の夢をあきらめないで〜
♪」
2000年 開幕版に収録(ロッテ時代)
1997年 開幕版に収録(巨人時代)
1994年 決定版に収録(近鉄時代・打点王獲得)


■伊藤 智仁(投手)ヤクルト・03年引退
93年入団。真横に滑るような高速スライダーを武器に7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げるが、7月中旬にひじ痛の
ため戦線離脱。たった実働3ヶ月ながら同年の新人王を受賞。しかし、94年以降は怪我に悩ませ続けられる。
02年オフには年棒90%オフで現役続行を宣言。03年は復活を目指し若手中心の秋季リーグに志願登板したが
直球は109キロにとどまった。球団の引退勧告を受け03年、ついに現役引退を表明した。
古田が「今まで受けた投手の中で最高の投手」と称す。あの高速スライダーをもう一度…
1993年 決定版に収録(ルーキーイヤー・新人王獲得)
1997年 決定版に収録(抑えとして復活・カムバック賞受賞)

■伊東 勤(捕手)西武・03年引退
捕手として歴代3位となる2327試合に出場。西武黄金時代の司令塔として活躍した。引退翌年の2004年から西武監督に就任。
1994年、近鉄との開幕戦で、3点のビハインドの場面で守護神・赤堀から逆転サヨナラ満塁ホームランを放つ。
この試合をテレビ朝日が中継していたが、ちょうど伊東がこの一打を放った瞬間に放送時間終了で打ち切られてしまい、
視聴者からは抗議の電話が殺到したという。選手として日本シリーズでセ・リーグ6球団全てと対戦した唯一の捕手。
2003年 決定版に収録(ラストイヤー)
1994年 決定版に収録(リーグV5を達成)

■広澤 克実(一塁手・外野手)ヤクルト〜巨人〜阪神・03年引退
強打者でありながら、流し打ちが得意なバッター。ヤクルト時代は不動の4番。打点王2度獲得。
巨人時代は不慣れな外野でミスを連発。他球団からのマークが厳しく打撃も影を潜めた。
2003年日本シリーズ最終戦でH和田から引退の花道を飾るホームラン。
「野球の神様ってほんまにいるんだと思った」和やかな笑顔で、涙なしの広澤らしい引退会見が忘れられない。
現役19年の間で退場処分を受けたことは一度もない。ここにも広沢の人柄が垣間見れる。
2003年 決定版に収録(阪神時代・ラストイヤー)
1993年 決定版に収録(ヤクルト時代・打点王獲得)
1995年 決定版に収録(巨人時代・FA移籍一年目)


■川崎 憲次郎(投手)ヤクルト〜中日・04年引退
ヤクルト時代の98年に最多勝・沢村賞を獲得。シュートを武器に巨人キラーとして活躍。
01年にFAで中日に移籍するが、怪我で丸3年投げられなかった。
03年には登板ゼロながら心ないファンの嫌がらせでオールスターファン投票1位に選ばれる。
結局辞退したが、大騒動になってしまった。04年は開幕投手。こちらも賛否両論だった。
2004年 開幕版に収録(中日時代・ラストイヤー)
1998年 決定版に収録(ヤクルト時代・最多勝獲得)

■伊良部 秀輝(投手)ロッテ〜エクスポズ〜ヤンキース・他〜阪神・04年退団
ロッテ時代の1993年に当時の日本記録、158キロをマークし大ブレイク。西武・清原との勝負は「平成の名勝負」として
プロ野球ファンの記憶に今も残る。当時、日本ハムの大沢監督が「クラゲ」とニックネームをつけた。
1996年オフにメジャーへの移籍を主張し、一度エクスポズへトレードされるが拒否。ヤンキース入りを主張した。
一度、エクスポズへ入団してからヤンキースへ三角トレードされた。この行為は問題となり、現在のポスティングシステム
成立の引き金になったと言われている。かなり悪者扱いされるが、伊良部は父親を捜す為に世界一有名なヤンキースへ
の移籍を希望したのではないかといわれている。果たして真相は…。
2003年 決定版に収録(阪神優勝時)
1993年 決定版に収録(ロッテ時代・158キロをマーク)
■赤堀 元之(投手)近鉄・04年引退
近鉄の守護神としてチームを支えた。5度の最優秀救援投手となり、横浜・佐々木と並び、90年代を代表する抑え投手。
片岡篤史は松坂大輔のスライダーを見て、「こんなに切れるスライダーは赤堀投手以外に見たことがなかった」と語った。
1992年 決定版に収録(防御率1位のタイトル獲得)
1997年 決定版に収録(5度目の最優秀救援投手に輝く)


■佐々木 主浩(投手)横浜〜マリナーズ〜横浜・05年引退
ハマの大魔神も2005年に引退。引退試合での盟友・清原との真剣勝負にファンは涙した。
1998年にシーズン45セーブと当時の日本新記録を樹立し、横浜38年ぶりの優勝に大きく貢献しMVPを獲得。
2004年の日本球界復帰後は球威不足が否めず、抑えきれない場面が多かった。ファンに水をかけられる屈辱も。
離婚問題など最後は後味の悪い引き際となってしまったのは非常に残念。
2005年 開幕版に収録(ラストイヤー)
1998年 決定版に収録(横浜優勝・MVP獲得)

■野村 謙二郎(遊撃手)広島・05年引退
カープを長年引っ張ってきたリードオフマン。一時期メジャーが獲得に乗り出したこともあった。
1995年にトリプルスリーを達成。2005年に2000本安打達成。最多安打2回、盗塁王3回獲得。
セ・リーグの90年代を代表する内野手のひとり。2010年からカープ監督に就任。
2005年 決定版に収録(ラストイヤー)
1995年 決定版に収録(トリプルスリー達成)
■岩本 勉(投手)日本ハム・05年引退
90年代中盤から日本ハムを支えたエース。1998年と1999年には2年連続して開幕戦で完封勝利。
一番の思い出は、2005年5月21日の交流戦・巨人戦(東京ドーム)で、5回表に野間口からホームランを放った。
これはパ・リーグが指名打者制を導入した1975年以降、パ・リーグの日本人投手として初のホームランだった。
しかし、本業の投球では6回裏にローズ・小久保に本塁打を許し、敗戦投手となった…。
また、1イニング3被本塁打を3度経験しているが、2回目となった1998年の対ロッテ戦ではフランコ、初芝に連続被弾、
さらに続く佐藤幸に至っては打ち取った当たりをセンターの井出が捕球出来ずランニングホームランとされて、
3連続被弾となってしまった。キャラクター同様に珍プレーの多い野球人生であった。
1998年 決定版に収録(キャリアハイとなる13勝をあげる)
1995年 決定版に収録(プロ初勝利・先発ローテ入り)


■新庄 剛志(外野手)阪神〜メッツ・他〜北海道日本ハム・06年引退
もはや説明不要のスーパースター。99年の敬遠球をヒットにするなどエピソードが多いが、
一番の思い出は04年のオールスターでのホームスチール。新庄らしいがあれには驚いた。
一人で球場を満員にすることのできる最後の選手ではないだろうが。まさにエンターティナー。
2006年 決定版に収録(北海道日本ハム時代・ラストイヤー)
2000年 決定版に収録(阪神時代・4番打者として活躍)

■土橋 勝征(二塁手・外野手)ヤクルト・06年引退
いぶし銀という言葉はこの選手の為にあると思う。ここぞという場面で最高の仕事人だった。
あるスポーツ紙で巨人時代の上原が「苦手な打者は誰ですか?」と尋ねられて「土橋さんですよ。」と語っていた。
古田、池山、飯田ら主力選手に対してよく苦言を言っていた野村監督が土橋にだけは小言を言ったことはないらしい。
非常に照れ屋で、口下手であり、殊勲打を放った時でもヒーローインタビューは拒むことが多かった。試合中は
喜怒哀楽を一切見せなかったが、引退試合で二塁打を放ち、初めてグラウンドでガッツポーズを見せた。
「次、また打てるとは限らない。だから今までは喜べなかった」最初で最後のガッツポーズだった。
2006年 開幕版に収録(ラストイヤー)
1995年 決定版に収録(ヤクルト優勝・野村監督に影のMVPと称させる)

■飯田 哲也(外野手)ヤクルト〜楽天・06年引退
ヤクルトに捕手として入団するも、90年野村監督に俊足を活かす為に二塁手にコンバートされる。
翌年入団したレイが外野手を拒否し、二塁手を主張した為に飯田が外野にコンバートされた。
これが大当たり。偶然が呼んだ産物でその後7年連続ゴールデングラブ賞獲得。
運動神経が抜群でTBSの「スポーツマンNo、1決定戦」に何度も出場。優勝争いの常連だった。
2006年 決定版に収録(楽天時代・ラストイヤー)
1997年 決定版に収録(ヤクルト優勝・初の打率3割)
■カツノリ(捕手)ヤクルト〜阪神〜巨人〜楽天・06年引退
いわずと知れた名将・野村克也の三男。意外に左投手に強く、対左キラーとして起用されることも多かった。
06年の引退試合で喫した1試合6許盗塁は、1人の捕手が1試合に許した盗塁の日本ワースト記録であった。
相手の千葉ロッテの選手たちは、最後の花道に盗塁を刺すシーンを用意しようという考えで積極的に走ったが、
あまりの弱肩のために一つも刺すことができなかった…。
2006年 決定版に収録(楽天時代・ラストイヤー)
1997年 決定版に収録(ヤクルト時代)


■古田 敦也(捕手)ヤクルト・07年引退
ミスタースワローズ。この人なくては90年代のヤクルト黄金時代はありえなかっただろう。
91年に首位打者、93年・97年はMVP。03年には1試合4本塁打。05年に2000本安打達成。
04年の球界再編問題の時は選手会会長としてファンと共にオーナー達と戦った。
球界初のストライキ決定時に見せた涙は今も忘れられない。誰よりもファンを愛した。
06年にノムさん以来のプレイングマネージャー就任。「代打、オレ」は流行した。
引退セレモニーでの「また…また逢いましょう」は名言。ファンは再会を待っている。
2007年 決定版に収録(ラストイヤー)
1991年 決定版に収録(最終打席ヒットで首位打者獲得)
1997年 決定版に収録(ヤクルト優勝・4番打者としてMVP獲得)

■高津 臣吾(投手)ヤクルト〜ホワイトソックス・他〜ヤクルト〜韓国・ヒーローズ
盟友・古田とともに90年代ヤクルト黄金時代を支えたひとり。通算286セーブを記録。
「高津−古田のバッテリー」は1990年代から2000年代初頭を代表する黄金バッテリーとして
プロ野球ファンの記憶に残る。古田の引退試合では9回表に登板し、
古田が現役最後にバッテリーを組んだ投手となった。結果は緒方を宝刀シンカーで見逃し三振。
2007年 開幕版に収録(ラストイヤー)
1993年 決定版に収録(ヤクルト優勝・初の胴上げ投手)

■鈴木 健(一塁手・三塁手)西武〜ヤクルト・07年引退
西武では清原の抜けた97年以降は4番打者として活躍。しかし、2000年以降は出番が激減。
03年にヤクルトに移籍。岩村が怪我で離脱するとサードの定位置を獲得。自己最高記録を残す。
03年セ・リーグカムバック賞を受賞。その後も代打の切り札としてスワローズを支える。
現役最終打席でサード方向へのファールフライを打ち上げてしまうが、YB村田が落球(わざと?)。
打ち直しの打席で見事ツーベースヒットを放つ。健さんも横浜の村田も男の中の男!!
2003年 決定版に収録(ヤクルト時代・カムバック賞受賞)
1997年 決定版に収録(西武優勝・4番打者として活躍)

■黒木 知宏(投手)ロッテ・07年引退
闘志を前面に押し出したプレースタイルで、90年代中盤から「魂のエース」と称された。ニックネームは「ジョニー」
1998年7月7日、ロッテは16連敗中であり、この日の対オリックス戦に連敗脱出を賭けて先発。
2点リードで9回2死2ストライクまで打ち取るも、プリアムにまさかの同点2ランホームランを浴びる。
連敗脱出目前でよもやの同点ホームランを許した黒木はマウンド上に座り込み、悔し涙を流した。
これでチームは日本プロ野球ワースト記録の17連敗となった。この敗戦は「七夕の悲劇」と呼ばれている。
1998年 決定版に収録(最多勝獲得も、七夕の悲劇が…)
2001年 開幕版に収録(開幕戦で松坂に投げ勝ち、21世紀初の勝利投手になる)


■清原 和博(一塁手)西武〜巨人〜オリックス・08年引退
説明不要、通算525本塁打の大砲。しかし、タイトルとは無縁で「無冠の帝王」と呼ばれることも。
97年にFAで巨人に移籍するも、シーズン152三振のセ・リーグ新記録(当時)という屈辱を味わう。
巨人時代は死球に対しての威圧やマスコミへの威圧とコワモテの印象ばかり残った。
しかし、本当は心優しき人間でチームプレーを心掛ける選手だった。
ライト方向への打球が多かったのは、走者を進塁させるという気持ちがそうさせていた。
一番の思い出は06年神戸でのヒーローインタビュー「こんばんは、清原です」には笑った。
2008年 決定版に収録(オリックス時代・ラストイヤー)
1992年 決定版に収録(西武時代・36本塁打と活躍)
2001年 決定版に収録(巨人時代・打点王へあと一歩と迫る活躍)

■桑田 真澄(投手)巨人〜パイレーツ・08年引退
巨人を退団したのは2006年ですが、盟友・清原と並べたかったので08年に入れました。
巨人時代・全盛期の活躍は説明不要だと思うが、晩年は打ちこまれることが多かった。
99年以降は中継ぎ、抑え、敗戦処理と役割が固定されず迷走したが、精神力とノムさんも認める技術でカバーした。
一番の思い出は伝説の「10.8」決戦でのリリーフ登板。同年日本シリーズでもまさかのリリーフ登板。誰もが驚いた。
1994年 決定版に収録(MVP獲得・日本シリーズでは最後のKK対決)
1997年 開幕版に収録(661日ぶり涙の復活・KKコンビ復活)
2002年 決定版に収録(巨人優勝・最優秀防御率獲得)

■真中 満(外野手)ヤクルト・08年引退
93年入団。小柄ながら俊足巧打で97年からは1番バッターとして定着。黄金時代を支えた。
一時は「若松二世」と呼ばれたように170cmと小柄な体格ながらも鋭い打球を放つ好打者。
全力プレーを怠らない真面目な取り組み方は若手の見本だった。若手からは兄貴分的存在。
07年は代打での年間安打史上最多記録を作るが、08年は14打数1安打に終わり同年限りで引退。
2008年 開幕版に収録(ラストイヤー)
2001年 決定版に収録(ヤクルト優勝・打率3割)

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